tag:blogger.com,1999:blog-78338540587964143952024-03-08T13:16:11.022-05:00役に立たない西洋史 (yoshdance)歴史の片隅の、どうでもいいようなことを書いています。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.comBlogger33125tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-15418051095306876722010-06-18T22:56:00.002-04:002010-07-15T16:13:04.895-04:00女性がスカートをはく理由 -3女性がスカートを、なぜはくのか分からないままに、上のようなタイトルで書いていますが、ともかく続けます。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBwuvczi62I/AAAAAAAABxM/jS6-fN-3q_U/s1600/viking.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBwuvczi62I/AAAAAAAABxM/jS6-fN-3q_U/s320/viking.jpeg" width="237" /></a></div><br />
古代ローマの男性は、チュニックなどは着用しました。殊に労働者や兵士は短いチュニックでしたが、その下に脚を覆うものは履きませんでした。<br />
<br />
ゲルマン民族の大移動は世界史に出てきたように覚えてますが。西洋の男性のズボン姿は、どうやらゲルマンその他の、紀元後にヨーロッパに移住してきた民族によってもたらされたものらしいです。彼らがなぜ、その当時はタイツなどもありましたが、今で言うズボンを着用したのか、本当の理由は分かりませんが、ひとつは乗馬や戦い、旅などをするのに便利だったからかもしれません。<br />
<br />
タイツのようなものはゲルマン民族の女性も保温などのためもあり、着ていました。しかしその上に裾の長い服、つまりスカート、を着ていたので、女性が長いスカートをはく、という習慣は地中海周辺地域と共通していたようです。<br />
<br />
上の絵はローマ人からかけ離れた文化を持っていた、ヴァイキングとアイリッシュ(ケルト)の王。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-83633353946967887932010-06-17T22:00:00.004-04:002010-06-23T18:20:25.623-04:00女性がスカートをはく理由 -2<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBrL9TwZTRI/AAAAAAAABw8/RH9ejUnc3cI/s1600/index.php.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBrL9TwZTRI/AAAAAAAABw8/RH9ejUnc3cI/s320/index.php.jpeg" /></a></div><br />
ミノア文明のファッションは特有だと書きました、しかし西洋のファッションの流れを既に生み出していることは確かです。<br />
<br />
古代ギリシャからローマにかけての服は、単純に言ってしまえば四角い布を巻きつけるだけでしたが、ここでは労働者や肉体を使う者は、これも単純に分けると、膝上の短いものを、そうでない者は足首までの長い布を着用していました。 <br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBrOCdfYVDI/AAAAAAAABxE/7l9jauUuhmo/s1600/250px-Diane_de_Versailles_Leochares_2.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBrOCdfYVDI/AAAAAAAABxE/7l9jauUuhmo/s200/250px-Diane_de_Versailles_Leochares_2.jpg" width="150" /></a></div>右は女神アルテミスの像ですが、狩りをする活動的な姿には、短いチュニックを着せてます。同じくギリシャ神話のアマゾンの女性の絵で、ズボンをはかせたものもあります。つまり、活動的な人にはたとえ女性でも男性のような格好をさせたわけです。<br />
<br />
女性は通常家族と家を守り、外で働くことはありませんでした。よって、裾の長い服でも不都合はなかった。これは女性はスカートをはくようになった一因かもしれません。<br />
<br />
もう一つ、古代ローマの娼婦は、体の線が透けるような薄い布の服を着て街を歩いたり、売春宿の入り口あたりで全裸で立って客を誘い込んだりしたという記録があります。薄物を着ていると、裸同然なので、選ぶ側の男性がじっくりと体つきの美醜を観察できたとか。 <br />
そういう女性と(別に彼女らの服装が基準というわけではないでしょうが)、そうでない女性を区別するためにも、男性が自分の家族の女性に肌を見せない格好をさせたかもしれません。<br />
<br />
ついでに言いますと、当時の男性による、娼婦の見定め方についての記述が残ってます。顔の良し悪し、全体のプロポーションの美しさ、脚の美しさ、ウエストの細さなどについて語っていますので、目の付けどころは古代から現代まで、全く変わってないんですね(笑)yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-48639248490094219622010-06-16T23:14:00.005-04:002010-06-17T12:03:34.804-04:00女性がスカートをはく理由ギリシャのサントリーニ島に行ったのは、もう3年近く前のことです。夕日が有名とか、断崖の上の街並みが美しいとか色々言われますが、私が一番楽しみにしていたのは遺跡発掘現場でした。一般公開されていて、大変おもしろかったと、以前行ったことのある人から聞いていましたので。<br />
<br />
バスでのんびり終点まで揺られて、そのバス停から歩いてすぐです・・が、 閉まっていました。今も観光客には閉鎖されてます。2005年に屋根が落ちて見学者が死亡する事故があって以来です。今年いっぱいは閉鎖されたままだとか。<br />
<br />
サントリーニのアクロティリ遺跡のものは、クレタ島のものと混同されがちです。クレタ島の近所の島ですし、ミノア文明は貿易で発展していきましたから、類似していて当然でしょう。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><br />
さて本題の、女性がスカートをはく理由ですが、はっきり言って分かりません。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><a href="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBmPEuWaO2I/AAAAAAAABws/Y-xg_SM6XpY/s1600/Akrotiri-lady-with-papyri.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBmPEuWaO2I/AAAAAAAABws/Y-xg_SM6XpY/s200/Akrotiri-lady-with-papyri.jpg" width="152" /></a>女性がスカート、男性がズボンという区別が昔からあるのは西洋のみでしょうか。 ここにある絵は、アクロティリで発掘されたフレスコ画の一部。男女とも衣服に、クレタ島のフレスコ「百合の王子」や蛇の女神像との共通点が見られます。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br />
</div><a href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBmPPPNxtPI/AAAAAAAABw0/k2sCh-FPkws/s1600/saffron_gatherers.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/TBmPPPNxtPI/AAAAAAAABw0/k2sCh-FPkws/s200/saffron_gatherers.jpg" width="158" /></a> <br />
<div style="text-align: left;">これらを見る限り青銅器時代(2700~1500BC)には、既に現代に通用する、男女差のあるスタイルが存在したと言えるのですが、しかし、ミノア文明は特殊でして、この後ギリシャ、ローマ文明を経てヨーロッパ中世も過ぎて、ルネサンスにかかる頃まで待たないと、男性はともかく、女性の、左の絵のようにはっきりとウエストを絞り、スカートを膨らませたスタイルは現れません。</div>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-79685343508251107542010-05-26T16:58:00.002-04:002010-05-26T17:00:06.695-04:00ミニ ロマンチックチュチュ その後<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S_2K5jQE4XI/AAAAAAAABwU/pqjqTu-NQiw/s1600/DSCN4494.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="240" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S_2K5jQE4XI/AAAAAAAABwU/pqjqTu-NQiw/s320/DSCN4494.JPG" width="320" /></a></div>以前サンプルをひとつ紹介しましたが、その後さらに試作を重ね、ようやく仕上がりました。小学校2年から5年生くらいまで、全部で33着のオーダーでした。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-63640140583469904612010-03-18T18:56:00.007-04:002010-03-24T10:13:03.103-04:00Thomas Gainsborough その6ゲインズバラは1744年には自分のアトリエ<span style="font-size: x-small;">(考えてみるとフランス語が多いようです・・)</span>を持ってました。1746年頃には東ロンドンのHatton Gardenという通りの貸家で、住まい兼アトリエで仕事をしていたようです。この通りは中世から宝石、貴金属、装身具の取引場所として知られてたようで、今も宝石店が道の両側にぎっしり並んでますから、ゲインズバラが住んでいた頃も似たようなものだったろうと想像しています。 <br />
<br />
<a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S6K5A8sGxKI/AAAAAAAABvs/kGauP08-eBg/s1600-h/67+hatton+garden.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S6K5A8sGxKI/AAAAAAAABvs/kGauP08-eBg/s200/67+hatton+garden.jpg" width="98" /></a>イギリスの良い所は、物事があまり変わらないことで、ゲインズバラが住んでいたHatton Garden 67番地は今もあり、一階には宝石店が入ってます。建物は後のものだと思いますが。<br />
<br />
彼はここにすんでいた時期である1776年7月にマーガレット・バア<span style="font-size: x-small;">(バー? Margaret Burr)</span>と言う女性と結婚しました。 場所はメイフェア・チャペルと言う、極秘にする必要のあるような結婚の式を司るので悪名の高かった教会です。式を挙げたときマーガレットは既に妊娠していたようです。でも極秘結婚が必要だったのは、マーガレットがある公爵<span style="font-size: x-small;">(3rd Duke of Beaufort 1707 – 1745)</span>の私生児であったからとも言われます。<br />
<br />
彼と彼の妻は、1748年ゲインズバラの長女マーガレットが亡くなると、翌年生まれ故郷サフォークのサドブリーに帰ります。 これはその後も生まれてくるであろう子供をより良い環境で育てたかったのと、ロンドンでの画家としての成功が難しいと見極めたからだと言われます。<br />
<br />
亡くなった娘は、当時の住まい周辺の地元教会 St Andrew Holborn に埋葬されました。<br />
ごく当たり前の小さな教会だと思ってましたが、デザインは近所のセントポール大聖堂と同じ建築家クリストファー・レンのようです。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-18121401508929105742010-03-12T00:58:00.006-05:002010-03-18T15:12:44.827-04:00Thomas Gainsborough その51740年、ゲインズバラはロンドンに出て絵の修行をはじめます。版画家(挿絵画家)は絵描きよりも職業としては安定していましたので、若い時にゲインズバラ同様、金銭的余裕のなかった同時代の画家ウィリアム・ホガースやウィリアム・ブレイクも版画の勉強から絵の世界に入りました。<br />
<br />
版画や印刷の勉強はもちろんしましたが、師に付いた版画家ユベール=フランソワ・グラヴロ(Hubert Francois Gravelot)は絵描き、デザイナーとしても名の売れたフランス人でした。この人から様々な事を学び取ります。 グラヴロはイギリスに渡る前はフランソワ・ブーシェの弟子であったこともあり、ロンドンに当時のフランス・ロココのスタイルを伝え、流行させたことで知られてます。<br />
<br />
さて日本で素描のことをデッサン<span style="font-size: x-small;">(仏 dessin)</span>と呼ぶのは、私はいつも面白いなと思うのですが、それはともかくゲインズバラの10代後半の頃のデッサンがあります。<br />
はっきり言ってそれほど上手くはなく、形の全体をきちんと捉える事が出来てません。 師のグラヴロから教わる他に、一応画学校にも通って勉強しましたが、当時のヨーロッパ大陸に比べると芸術面では遅れをとっていたイギリスです。あまりきちんとした指導は受けなかったようです。それでもこの頃からドレスやコートなどの布の質感の違いには注意を払っており、後のスタイルを彷彿とさせるものがあります。<br />
<br />
<a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S51nKwvUdEI/AAAAAAAABvU/uDcf0Jh4P08/s1600-h/Bumper.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S51nKwvUdEI/AAAAAAAABvU/uDcf0Jh4P08/s320/Bumper.jpg" width="272" /></a>左は現存する彼の絵の中では一番日付が古いものです(1745年)。ヒル婦人という人の依頼で描いたもののようですが、犬の絵はこの後も何枚も描いており、どれも特徴だけでなく、性格(?)もよく捉えていると言われます。<br />
イギリス人が人間よりも動物との方がコミュニケーションの取り方が上手い(犬や猫に自分の思うことを自由に話しても文句言いませんし 笑)のはご存知の方もいらっしゃると思いますが、ゲインズバラも例外ではありませんでした。<br />
結婚後の事ですが、妻のマーガレットと喧嘩した後の仲直りには、フォックスとトリストラムと名付けて可愛がっていた二匹の犬に仲直りのメッセージを渡してもらったりしたとのことです。<br />
<br />
<span style="font-size: xx-small;">Picture above : Bumper, Bull-Terrier Owned by Mrs. Henry Hill, c.1745</span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-91160209544533177392010-03-10T00:01:00.007-05:002010-03-10T17:15:38.532-05:00Thomas Gainsborough その4<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S5cnCoztRZI/AAAAAAAABvM/GeTKeaYfSh0/s1600-h/Self+Portrait+by+Thomas+Gainsborough.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S5cnCoztRZI/AAAAAAAABvM/GeTKeaYfSh0/s200/Self+Portrait+by+Thomas+Gainsborough.jpg" width="160" /></a></div>さて、先に家族の事を書きましたが、トーマス・ゲインズバラ自身もエキセントリックだったと言います。<br />
<br />
左は1754年の自画像。未完成です。<br />
ここには、彼の社会に認められる存在になりたい自分と、その気持ちを裏切るようなある種の大胆さと、さらにその大胆さの逆の自信のなさが混ざりあっているようです。<br />
実際の性格も、積極的で魅力もあり、機知に富んだ話し手でもあると同時に、非常に控えめで時には自信のなさが目につくこともあったとか。 一つの事を執念深く研究し続けたりもしました。そして、彼の絵に顕著なのは、女性に対する感情です。<br />
<br />
"Deeply schooled by petticoats"<br />
これは彼自身の言葉です。ゲインズバラは女性に対する性的な感情、感覚を絵画という形で表したと言われます。それは女性の肖像画の多さを考えると頷けます。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-3025055591677390762010-03-07T11:02:00.005-05:002010-03-10T00:05:33.846-05:00Thomas Gainsborough その3さて、ゲインスバラの従兄弟のジョン・ゲインズバラは事業も上手くいき、豊かな生活をしていましたが、名前は同じ彼の父親ジョン・ゲインズバラは、一族の中のダークホースと言われる半面、むっつりと内にこもりがちな性格で、これは今では事実か分かりませんが、銃を肌身離さず持ち歩いていたとのことです。ちょっとした精神的な歪みがこの一家に見られる様で、ゲインズバラのお兄さん(この人もジョン・ゲインズバラ)は、より風変わりでした。<br />
<br />
常に全く実用性のない物の発明などにお金と時間をかけ、妻と子供のいる生活を顧みることがなかったとかで、生活に困っているのは当たり前。まわりにはSchiming Jack<span style="font-size: x-small;"> (ジャックは、ここでは本名に関係ないあだ名です)<span style="font-size: xx-small;"> </span></span>というあだ名で呼ばれていました。彼が”発明” した物の中には、一日中鳴きつづけるカッコウ時計や自動ゆりかごなどがあります。彼の精神状態には首を傾げる人は多かったようです。<br />
<br />
しかし兄弟が10人もいれば、尊敬に値する人もいて当然で、トーマス・ゲインズバラは兄の一人、メソジスト派の牧師となったハンフリーを特に慕っていました。ハンフリーは快活な性格で、やはりものの発明に興味を持ってましたが、兄のジョンと違い、新しいタイプの耕作機と水車を発明して生産業の団体から賞金をもらってますし、スティームエンジンの改良もジェームズ・ワットに先駆けて行ってます。<br />
<br />
彼の二人の姉もハンフリー同様尊敬に値する女性で、ゲインズバラは生涯を通じて姉たちとは親しく付き合いを続けます。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-31732054726095724912010-03-05T19:51:00.005-05:002010-03-07T10:42:45.385-05:00Thomas Gainsborough その2当時のイギリスの商人など、中流クラスの人々の間では既存の宗教観を否定的に見る傾向があり、ゲインズバラ家も例外ではなくメソジスト派でした。より豊かな家庭に見られるような豪華で贅沢な生活を否定し、どちらかというと質素堅実、自然な心情や感情を大切にする宗派です。そういった宗教と家庭環境の影響だとも言われますが、ゲインズバラは風景画を描くのが好きな子供でした。<br />
この彼が長じて肖像画家として名を馳せたのはちょっと皮肉にもみえますが、メソジスト教徒らしく、じっと耐えていたのかもしれません。<br />
<br />
<a href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S5KWFX2T11I/AAAAAAAABus/BYqnB8MVeSo/s1600-h/heinsgainsboroughjohn1722.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S5KWFX2T11I/AAAAAAAABus/BYqnB8MVeSo/s200/heinsgainsboroughjohn1722.jpg" width="168" /></a>1730年代初めにゲインズバラのお父さんは事業に失敗して財産を失い、郵便局長なります。この転落を期にゲインズバラは、将来は版画家として独り立ちする目的で、ロンドンに出て版画家の元に弟子入りします。イギリスは本など出版物の量が多く、挿絵画家として生活をしていくことが可能だったのです。江戸の日本ならさしずめ版木彫りの親方に弟子入りするようなものでしょう。<br />
<br />
ゲインズバラが生まれ育った家は、大家族にふさわしくたっぷりと広さのあるものです。現在は博物館として一般に公開されてますが、この家に彼の家族が、経済難に見舞われても住みつづけられたのは、彼の親戚で有力者でもあったジョン・ゲインズバラの支援のお陰だといわれます。 <br />
<br />
上はその親戚の肖像で、ドイツ人肖像画家、ジョン・テオドール・ハインスの作。1731年の作です。これはゲインズバラが初めて目にした肖像画で、影響を与えたのではないかといわれており、先に紹介した彼の自画像は、この肖像画の謹厳で堅苦しいスタイルを真似ているようです。<br />
<span style="font-size: xx-small;">John Theodor Heins (1697-1756) : Portrait of John Gainsborough, c.1731 </span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-43249334462352765762010-03-05T10:40:00.012-05:002010-03-05T12:06:18.060-05:00Thomas Gainsborough その1ロンドンのある美術系大学で先生の一人に好きな画家は?と聞いたことがあります。帰ってきた答えがトーマス・ゲインズバラ。さまざまな苦労をしたことに共感を覚え、ターナーに先駆けて19世紀の印象派につながる表現を始めた人として、もっと評価されてもいいと語ってくれました。<br />
<br />
そう言われて改めて見てみると、彼の絵はあちこちの美術館にあり、とても目に付きます。私が行く機会のあるロンドンのテート・ギャラリー、NYメトロポリタン、フリック・コレクション等は、彼の絵を見たくてふらりと立ち寄る事もあります。彼が一時期住んでいたバースにもおもしろい作品がありました。<br />
<br />
<a href="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S5EllYdHFgI/AAAAAAAABuk/10FtJfU08vM/s1600-h/Gainsborough+elf.JPG" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S5EllYdHFgI/AAAAAAAABuk/10FtJfU08vM/s200/Gainsborough+elf.JPG" width="165" /></a>サフォークの小さいながらも栄えていた商業の地の、毛織物業に携わる家庭に生まれました。10人兄弟の末っ子。父親と兄弟がこの地の産業でもあった織物業で生計を立てていた影響か、姉のメアリーとサラはやはり布を扱う職業である婦人用帽子職人(男性用とは別の職業)になります。母方の叔父は聖職者と地元グラマースクールの先生を兼ねており、ゲインズバラ自身この叔父さんに学校で教わりました。<br />
<br />
<br />
上は彼が12歳の頃の作品で、自画像と言われてます。 <br />
<span style="font-size: xx-small;">Thomas Gainsborough, Self-Portrait</span> <span style="font-size: xx-small;">c.1739</span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-31112264886273636862010-02-16T21:29:00.001-05:002010-05-25T23:47:55.672-04:00ミニ ロマンチックチュチュとあるバレエ教室の為に、衣装を製作中です。試作を重ねた結果がこちら。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S3tT3XSvBPI/AAAAAAAABuQ/XoxVOWL7kZY/s1600-h/tutu.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="150" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S3tT3XSvBPI/AAAAAAAABuQ/XoxVOWL7kZY/s200/tutu.jpg" width="200" /></a></div><br />
<br />
子供用ですが、 <br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S3tTf2kX6SI/AAAAAAAABuI/K--KJNYCZ04/s1600-h/DSCN3666.JPG" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="150" src="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S3tTf2kX6SI/AAAAAAAABuI/K--KJNYCZ04/s200/DSCN3666.JPG" width="200" /></a></div>注文どおりに芯地にしっかりした生地を使ったら、<br />
<br />
<br />
自分で立ってしまいました。 <br />
<br />
<br />
これに、肩にゴムを付ければ完成です。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-64234009552348213532010-02-05T10:07:00.002-05:002010-02-05T10:13:04.082-05:00誰が、何時、何故パウダーを使い始めたのか18世紀、髪やカツラにパウダーを使い、白っぽく見せたことは今までにも書きましたが、今回はそのきっかけに付いてです。 <br />
<br />
使われ始めたのは1730年代でしょうか。<wbr></wbr>ルイ14世の死後、男<wbr></wbr>性のカツラが簡略化さ<wbr></wbr>れてゆき、より軽く着け易いものへと変わっていき、地毛とカツ<wbr></wbr>ラを両方使うスタイル<wbr></wbr>がこの頃に流行り始め<wbr></wbr>ました。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S2wxd0qYXkI/AAAAAAAABqI/iMyHsy6Q-NA/s1600-h/1730%27s+hair.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S2wxd0qYXkI/AAAAAAAABqI/iMyHsy6Q-NA/s200/1730%27s+hair.jpg" width="170" /></a></div><br />
この絵の男性の前や横の<wbr></wbr>髪は地毛で、後ろは見<wbr></wbr>えませんが、よくある<wbr></wbr>結んだスタイルのカツ<wbr></wbr>ラになってるはずです<wbr></wbr>。日本髪のカツラでも<wbr></wbr>顔のまわりは地毛を使<wbr></wbr>う半カツラがあります<wbr></wbr>が、それと同じ感じと<wbr></wbr>でも言いますか。<br />
これですと生え際が不自然でなく、確かに以前の長髪<wbr></wbr>のカツラように重たく<wbr></wbr>もなく着けやすかったの<wbr></wbr>ですが、カツラの髪の<wbr></wbr>色と自分の髪の色が一<wbr></wbr>致しないのが問題でし<wbr></wbr>て、それをごまかすた<wbr></wbr>めにパウダーが使われ<wbr></wbr>始めました。ですので<wbr></wbr>初めに使い始めたのは<wbr></wbr>男性です。<br />
<br />
始めた人は分かりませ<wbr></wbr>んが、当時のヘアスタ<wbr></wbr>イリストの誰かが考え<wbr></wbr>ついたのかもしれませ<wbr></wbr>ん。カツラと地毛の境目を<wbr></wbr>目立たなくする方法と<wbr></wbr>して、有名なスタイリ<wbr></wbr>ストと宮廷の誰かとが<wbr></wbr>結託して始めれば間違<wbr></wbr>いなく流行したはずで<wbr></wbr>す。<br />
<br />
女性も同時期にヘアピ<wbr></wbr>ースを使い、よりボリ<wbr></wbr>ュームのあるスタイル<wbr></wbr>を作るようになってい<wbr></wbr>きましたから、色の違<wbr></wbr>いをごまかすのには有<wbr></wbr>効だったはずです。19世紀に入ると、パウダーは廃れますが、女性のヘアピースは使われ続けます。その、時には違い過ぎる髪の色についての当時の記述もありますので、パウダーで白っぽくしてしまうのはとても良い方法だったと言えます。<br />
<br />
もう一つ、この時代は<wbr></wbr>おしろいが流行りまし<wbr></wbr>た。女性はもちろんの<wbr></wbr>こと、男性も使い、日<wbr></wbr>焼けしない貴族的な肌<wbr></wbr>の色を作り出すのが流<wbr></wbr>行り、それに伴い、白<wbr></wbr>い肌に合うブロンドや<wbr></wbr>プラチナブロンドの髪<wbr></wbr>がもてはやされたので<wbr></wbr>す。それが白い粉を好<wbr></wbr>んだ理由でしょう。<br />
<br />
さらに、当時は髪を洗<wbr></wbr>う習慣が無く、匂いも<wbr></wbr>かなりのものでした。<wbr></wbr>そこで髪粉にラベンダ<wbr></wbr>ーやオレンジ等の香料<wbr></wbr>を加えたり、パステル<wbr></wbr>カラーにしたり、様々<wbr></wbr>な工夫もされ始め、一時代を作り上げたわけです<wbr></wbr>。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-76127861983606697482009-12-31T11:01:00.042-05:002010-02-05T09:53:28.813-05:00誰が流行を作ったか1520年代からおよそ50年間、男性の間に短髪が流行ります。<br />
<div style="text-align: left;">それはこんな髪型から・・・・・・</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SzzI34oJe9I/AAAAAAAABpw/sRiv7kbEMGg/s1600-h/Swiss+Guard.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="193" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SzzI34oJe9I/AAAAAAAABpw/sRiv7kbEMGg/s200/Swiss+Guard.jpg" width="147" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">こんな髪型への変化でした。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br />
<a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S2wtUsxu4jI/AAAAAAAABqA/br1MTxrgxxY/s1600-h/Tizian+Frederico+Gonzaga.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="156" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/S2wtUsxu4jI/AAAAAAAABqA/br1MTxrgxxY/s320/Tizian+Frederico+Gonzaga.jpg" width="146" /></a> </div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"> ファッションデザイナー等がいて次々と違うものを市場に送り出し、消費を促す事などなかったこの時代、この様な急激な変化は何か理由が無い限り起こりません。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">理由は非常に単純です。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">フランス国王、フランソワ一世が乗馬中の事故で頭を怪我し、髪を切らねばならならず、宮廷の廷臣は国王に気まずい思いをさせないため、皆同様に髪を切り、その結果短髪が”流行り”始めたのです。しかし当時は富裕階級の男性にとって、手入れの行き届いた長髪は男性らしさや富や健康の象徴であり、これを切る事には非常に抵抗があったようで、代わりに髭を生やし始めます。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"> ファッションの変化は常にゆっくりと起こりました。かくして男性の短髪が50年ほども流行りつづけたのです。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br />
</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br />
</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br />
</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br />
</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-49405809163355328462009-09-29T10:35:00.065-04:002009-09-29T11:41:15.899-04:00命がけの美肌ケア<div style="text-align: center;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SsImBHYKAmI/AAAAAAAABks/vKUagUD15Mw/s1600-h/elizabeth+touch-up2.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SsImBHYKAmI/AAAAAAAABks/vKUagUD15Mw/s320/elizabeth+touch-up2.jpg" /></a><span style="background-color: #fff2cc;"></span><br />
</div>~~~~~~~~~~~~~レシピ~~~~~~~~~~~~~<br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">きれいな、柔らかい鉛の塊を薄く引き延ばし、巻いてロール状にする。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">それを鍋に入れる。その時に、鉛が底に着かないように棒などを置いた上に置く。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">鉛に”変化をもたらすために”酢を注ぎ入れる。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">鍋を鉛の板でフタをし、新しい馬の糞で作った床<span style="font-size: x-small;">(とこ)</span>の上に置いて3週間”消化させる”。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">3週間後、フタにした板と鍋の中の鉛の両方を、板の上できれいに押し延べて、薄片がすべて出尽くすまでラケットで叩く。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">次に、この薄片を臼で砕いて粉末状にする。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">水を加えて塊にしたら、天日で乾かす。</span><br />
</div><div style="text-align: left;"><span style="font-size: small;">出来上がったものに、染料や香料を混ぜて使う。</span><br />
</div><div style="text-align: center;">~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<br />
</div><div style="text-align: left;">以上が、1661年にイギリスである男性が実践した、鉛白の作り方。<br />
</div><div style="text-align: left;">そして以下が、この男性が体験した、鉛白作りの際に起こりうること。<br />
</div><div style="text-align: center;">~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<br />
</div><div style="text-align: center;"><span style="font-size: small;">お腹のねじれ、便秘、息切れ、めまい、眉間のひどい頭痛、失明</span><br />
</div><div style="text-align: center;"> ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~<br />
</div><div style="text-align: left;">すべて鉛中毒の症状です。 <br />
</div><div style="text-align: left;"><br />
出来上がった鉛白は、赤い色を混ぜて口紅や頬紅を作りました。染料としては天然の動植物性の染料のほか、バーミリオンも混ぜてつかわれましたが、これは硫化水銀。<br />
ベネチア製の鉛白が”良質”で人気があり、おしろいの原料としては雪花石膏が人気でして、こちらはフランス製。 <br />
<br />
</div><div style="text-align: left;">鉛白は昔は日本でもおしろいとして使われていましたが、お金にゆとりのある女性はこれらを毎日顔に塗っていたわけです。しかも水銀で顔を洗うこともありました。にきび、吹き出物、普通の肌荒れはもちろん、天然痘を患った女性は顔に跡が残ったので、それを隠すためにも必死だったのでしょうけど、そんなことを続ければ、美人薄命そのままでしたでしょう。<br />
</div><div style="text-align: left;"><br />
</div><div style="text-align: left;">なお当時の美人とは、血管が浮き出るほど色が白く、小さな薔薇色の唇、細くまっすぐの鼻、大きな眼、細いアーチ型の眉、それに広い額の持ち主で、おしろいで白くした肌に血管を描き、口紅を塗り、眉毛も額の生え際もムダ毛を抜いてかたちを整えるのが流行しました。<br />
<br />
<i><span style="font-size: xx-small;">picture above : from a portrait of Elizabeth I</span></i><br />
</div>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-51117123537199946562009-08-24T11:38:00.016-04:002009-10-02T10:50:07.617-04:00なぜ男性は髪が短いのが当たり前なのか?<a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SpK1UviAR3I/AAAAAAAABeo/W5UnBL_Z4z0/s1600-h/280px-Durer_self_portarit_28.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5373556673367525234" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SpK1UviAR3I/AAAAAAAABeo/W5UnBL_Z4z0/s320/280px-Durer_self_portarit_28.jpg" style="cursor: pointer; float: left; height: 178px; margin: 0pt 10px 10px 0pt; width: 127px;" /></a>そもそも何故このブログを始めたかというと、とあるQ&Aサイトでよく見られる質問に答え始めたことがキッカケです。ここにもひとつ。<br />
<br />
男性も髪を伸ばす文化はあちこちにありました。中国の弁髪とかネイティブアメリカンとか中近東、南アジアあたりとか。日本もそうでした。古代には男性も長髪が当たり前でした。<br />
新約聖書の頃になると、男性の長<wbr></wbr>髪は恥ずかしいことだ<wbr></wbr>という記述があります<wbr></wbr>。でも女性の長い髪は<wbr></wbr>頭をおおうものとして<wbr></wbr>許されています。イス<wbr></wbr>ラム教でも男性の長髪<wbr></wbr>を許す宗派もあり、そ<wbr></wbr>の逆もあり。でも女性<wbr></wbr>は長い髪を保つのが常<wbr></wbr>識。アフリカの一部で<wbr></wbr>も女性の豊かな長い髪<wbr></wbr>は、健康で丈夫な体の<wbr></wbr>現れと見られるとか。<wbr></wbr><br />
女性の長髪は豊かさ、<wbr></wbr>豊穣の現れという考え<wbr></wbr>方は、何となく説得力<wbr></wbr>あります。子供を産み<wbr></wbr>育てることが仕事でし<wbr></wbr>たから。<br />
<br />
キリスト教自体に髪の<wbr></wbr>長さに対する決まりは<wbr></wbr>なく、新約聖書の時代<wbr></wbr>にあらわれる西洋の男<wbr></wbr>性の短髪は、ローマ人<wbr></wbr>が推奨したものです。<wbr></wbr>このローマ人の習慣は<wbr></wbr>、帝国の拡大によって<wbr></wbr>取り入れられた、どこ<wbr></wbr>かの異端の文化です。<wbr></wbr>それより以前の古代ギリシャあたりだと、奴<wbr></wbr>隷は髪もヒゲも剃って<wbr></wbr>おり、逆に一般男性に<wbr></wbr>とっての長髪は富や権<wbr></wbr>力の象徴であり、人前<wbr></wbr>で長い髪をくしけずる<wbr></wbr>のも当たり前だったり<wbr></wbr>しました。<br />
その後のヨーロッパで<wbr></wbr>も(多分ルネッサンス<wbr></wbr>あたりから)男性の長<wbr></wbr>髪は普通で、後にはカ<wbr></wbr>ツラを使うほど認めら<wbr></wbr>れてました。このカツ<wbr></wbr>ラ(長髪)はやはり富<wbr></wbr>や権力の象徴でしたか<wbr></wbr>ら、フランス革命後に<wbr></wbr>廃止されます。<br />
<br />
前置きが長くなり<wbr></wbr>ましたが、イギリス市<wbr></wbr>民戦争でクロムウェル<wbr></wbr>派は、当時の宮廷の習<wbr></wbr>慣である長髪(カツラ<wbr></wbr>を含む)に対抗する意<wbr></wbr>味で、髪を短くしてい<wbr></wbr>ました。この短髪派(<wbr></wbr>ピューリタン)の人た<wbr></wbr>ちが勝利を納め、アメ<wbr></wbr>リカ大陸にも渡り、男<wbr></wbr>性の短い髪を広めてい<wbr></wbr>ったと考えられていま<wbr></wbr>す。男性の短い髪は各国の植民地にも広まったと考えると、現在の男性の短髪は、煎<wbr></wbr>じ詰めれば西洋の影響<wbr></wbr>です。<br />
歴史的には革命派の髪<wbr></wbr>型だったらしいのです<wbr></wbr>が、いまでは男性の長<wbr></wbr>髪の方が反社会的と見<wbr></wbr>られてますよね(笑)<span style="font-style: italic;"><br />
</span><br />
<span style="font-style: italic;"><span style="font-size: 78%;">Picture above : Self Portrait (1500) by Albrecht </span></span><span style="font-size: 78%;">Dürer</span><wbr></wbr>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-74154801945568650462009-08-07T11:24:00.021-04:002009-08-09T10:28:02.797-04:00カツラ(periwig)のその後<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnxHeT4LGwI/AAAAAAAABeg/nwM630xIOco/s1600-h/Colbert+1685+1.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 89px; height: 130px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnxHeT4LGwI/AAAAAAAABeg/nwM630xIOco/s320/Colbert+1685+1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5367243441976318722" border="0" /></a>カツラに特別な思い入れがあるわけではないのですが、再度言及してみたいと思います。<br /><br />以前述べましたが、カツラはフランスの王政廃絶とともに実質的に無くなりました。カツラは大変な贅沢品で、貴族の象徴のようなものでしたので、フランス貴族が着用したがらなくなり、加えて廃止論が高まり、国によっては(イギリスなど)税金をかけたりしたからです。しかしまったく無くなってしまったわけではなく、その後19世紀から続く伝統として、法廷などでは今でも使われてます。1823年まではイギリスとアイルランドの国教会主教も着用していました。法廷や教会はカツラ税の心配はいらなかったんでしょうね(笑)<br /><br />フランス革命まではカツラは、貴族の身だしなみであると共に、特権階級の社会的な身分の象徴でもありました。それが法廷という特殊な場で、法を司るものの地位を示す道具として生き残って行ったのです。カツラに黒い法服の裁判官その他が前にデンと構えていると、向かい合う人々の気分はやはり改まるものではないでしょうか。とは言うものの、カツラかぶってふんぞり返ってもったいぶった姿は面白おかしくもあり、ほぼ必然的に、「お偉方」を意味する茶化した言葉(bigwig)もあります。<br /><br />今でも法廷でカツラを使う国はUK、その連邦国、それに返還後の香港でも使ってます。オーストラリアの一部、ニュージーランドは廃止しましたが、現在の裁判官のカツラは18世紀中頃のスタイルを模したもので、その頃の「カツラは正装の一部」の意識は未だに続いているわけですね。<br /><span style="font-size:78%;"><span style="font-style: italic;"><span style="font-size:100%;"><br /><span style="font-size:78%;">picture above portrait of Colbert villacerf, 1685</span><br /></span></span></span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-76653865403460339442009-08-04T15:53:00.003-04:002010-06-12T19:46:45.364-04:00ミュール<a href="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnTQ0serH2I/AAAAAAAABeQ/r7hgt8CyyzE/s1600-h/fragonard+shoe.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5365142659816693602" src="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnTQ0serH2I/AAAAAAAABeQ/r7hgt8CyyzE/s320/fragonard+shoe.jpg" style="cursor: pointer; float: left; height: 126px; margin: 0pt 10px 10px 0pt; width: 90px;" /></a>公衆の面前で初めて、恥ずかしげもなくミュールを履いた足を出した女性はドロン伯爵夫人、と言われていますが、これは年代もはっきりしており、1694年のことです。<br />
<br />
ミュール(スリッパ)は、これもまた古代から各地にありましたが、古代ローマで一部の地位の高い男性のみが着用を許されていた、赤いサンダルタイプの靴mulleus calceusのmulleusが、現在のミュール(mule)の語源のようです。代々のローマ法王もこのタイプの靴を履きました。つまり、男性が当たり前に履いていたものです。<br />
<br />
ただし、このmulleusは靴ではなくその色を示す言葉です(calceusが靴)。この言葉を辿ってみると(私には)面白かったので言及しますと、 ラテン語のmulleusは、地中海のred mulletという魚のmulletのこと。これは日本のカサゴの様な、それよりも少し青味の強い綺麗な赤い魚です(さっぱりした白身で美味しい)。ローマ人の靴mulleus calceusは、その赤い色と艶が、この魚と似ていたことから名づけられたもののようです。<br />
<br />
同時期のローマに、もっと今で言うミュールに近いスリッパも普通にあり、こちらの名前はsoccus。これは男性用はともかく、女性用は柔らかい革製の家の中に限られたスリッパで、人前で履くものではありませんでした。このようなスリッパを履いて堂々と道を歩けたのは、高級娼婦だけ。と言う以前に、きちんとした女性は無闇に外出することはありませんでしたが、娼婦は何かと自由に振る舞えたので、室内履きのスリッパでも平気で出歩いたのでしょうか。(ちなみに当時は左右がありました)<br />
いずれにせよこのスリッパは、その後何世紀ものあいだ室内履きとして、男性にも女性にも使われ続けます。そしてこれにミュールという言葉が使われ始めたのは16世紀中頃です。<br />
<br />
17世紀後半に、詳しいことはここでは書きませんが、貴族階級の女性の間でカジュアルな服装が流行ります。これは、それまでの室内/寝室着がちょっとした外出着に変貌をとげたものでしたが、「トータルコーディネート」の意識からでしょうか、服に伴って靴も寝室から街へ繰り出して行ったのです。もちろん上質の革や絹製だったり、レースやリボンで飾り立てられたものでした。<br />
<br />
さて、ドロン伯爵婦人は若い頃は、大変な貞操観念の希薄さで知られた女性だったようですが、1694年というと既に60歳くらいでした。<br />
教会へ行くと床にひざまずいたりします。この時に高貴な女性はクッションを使うことが許されていました。ドロン婦人は教会で、つまり大衆の集まりの中でわざと横座りして、グリーンのストッキングと赤いヒールのミュールが見えるようにしたんだとか。彼女が見せたかったのが最新流行の靴なのか、ストッキングなのか、それとも彼女自身が注目を浴びたかったのか、その辺りは分かりませんが、それまでの「室内の、人前にでない姿の時の履物」のイメージは、そうそう変わるものではなかったでしょうし、よほどショッキングだったのでしょう。この場面を描いた当時の絵があるほどです。<br />
<br />
18世紀になると絵画でもよく見られるように、ミュールは当たり前になりますが、この頃のヨーロッパ貴族の生活はかなり乱れたものでもありました。つま先は隠されているが、かかとは出ている。簡単に脱げる。考えてみれば非常に思わせぶりな靴です。ファッションと社会の関連性も、この頃になると現れてきます。<br />
<a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnZyPuE8dsI/AAAAAAAABeY/wuN9aLamRnA/s1600-h/comtesse+d%27Olonne+2.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5365601620450899650" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnZyPuE8dsI/AAAAAAAABeY/wuN9aLamRnA/s320/comtesse+d%27Olonne+2.jpg" style="cursor: pointer; float: right; height: 305px; margin: 0pt 0pt 10px 10px; width: 213px;" /></a><br />
ミュールというと今は女性のものですが、昔は室内履きのスリッパの事で、例えば17世紀後半のある貴族の男性の日課が『朝起きてミュールに足を突っ込む』でした。ミュールというと今もセクシーな靴のイメージが強いのは、ローマの昔から綿々と続く、もともとは室内履き、つまりむやみに人に見せないものであった歴史から来ているのだと思われます。<br />
<br />
<span style="font-size: 85%;">左の女性(絵の下の記述は Madame la Comtesse d'Olonne, ドロン伯爵夫人)の絵は左足のかかととミュールがポイント。でもそれだけでなく、最新のファッションに身を包んでいます。</span><br />
<br />
<span style="font-style: italic;"><span style="font-size: 78%;">pictures from top<br />
The Swing</span></span><i> <span style="font-size: 78%;">(Les hasards heureux de l'escarpolette)</span></i><span style="font-style: italic;"><span style="font-size: 78%;"> by </span></span><span style="font-size: 78%; font-style: italic;">Jean-Honoré Fragonard<br />
17th century engraving, Madame la Comtesse d'Olonne</span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-60572303284363922312009-08-01T22:13:00.002-04:002010-06-12T19:46:26.313-04:00ハイヒール その217世紀まで、靴の作りやスタイルに男女の区別は殆どなく、女性の足は常にドレスの下にかくされていた事もあり、女性の靴のおしゃれ度は 確実に男性以下でした。が、男性が赤いヒール、バラの花形の飾り(ロゼッタ)、金銀にダイヤその他の宝石をあしらったバックルやリボン等を楽しんでいれば、女性だっ て当然華やかなものが欲しくなります・・よね?<br />
<br />
殊に前回述べましたレスタージェの、靴屋としての伝説的な成功の後には、パリの街に高級靴屋が増えます。まずは男性専門の靴屋が何軒もでき、その後、女性の靴屋も少しずつですが増えて行き、この時代までに、今ある靴のすべてのスタイルが作られたと言います。<br />
<span style="font-style: italic;"></span><br />
写真は<a href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnSZ8RCFE5I/AAAAAAAABeI/IzRAESCRQwA/s1600-h/English+shoe+with+louis+heel.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5365082316748428178" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnSZ8RCFE5I/AAAAAAAABeI/IzRAESCRQwA/s320/English+shoe+with+louis+heel.jpg" style="cursor: pointer; float: left; height: 75px; margin: 0pt 10px 10px 0pt; width: 114px;" /></a>1740~50年頃のイギリス製ですが、Louis French, Louis Heel, 日本ではフレンチヒールと呼ばれるタイプのヒールのシェイプ。Louisはルイ14世のルイ。上からの深いカーブが中程から下へ向かって裾広がりになる、<span style="font-style: italic;"></span>弧を描くかたちが特徴です。今でも普通にありますよね、これ。細身で軽く<span style="font-size: 78%;"><span style="font-style: italic;"></span></span>て、非常に女性らしいシルエットで、この時代までなかったのが不思議なくらいですが、靴作りの技術の向上も必要だったのでしょう。<br />
シンデレラの物語がこの時代に改めておとぎ話として取り上げられたのも、偶然ではないかもしれません。16世紀までの女性の靴に関しては別に書く必要がありそうですけど、これ以前の時代設定では、シンデレラの物語はなんともつまらないものになったと思えます。<br />
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再び靴屋レスタージェについてもう少しだけ。<br />
彼が国王ルイ14世に贈呈した伝説的なブーツがあります。当時の様々な記録によると、『縫い目が一切無く、しかし足にぴったりフィット』したんだとか。その奇跡的な(と言われた)靴がどうやって作られたかについて、レスタージェが秘密を守ったために、人々は様々な考えられないような憶測をしますが、その1つに、吹きガラスの工芸技術を真似て、一気に作り上げたのではないかと考えた人までいます。<br />
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シャルル・ペロー原作のシンデレラはガラスの靴は履いていなかったと言います。でもこの物語が出版されたのは1697年。女性が足もとのおしゃれに目覚めた、まさにその時でした。<br />
<span style="font-style: italic;"><span style="font-size: 78%;"><br />
the photo above from Fashion : A History from the 18th to the 20th Century</span></span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-40756160892188411302009-07-31T22:26:00.013-04:002010-06-12T19:45:56.938-04:00ハイヒール<a href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnJTg3H7z_I/AAAAAAAABdQ/r8mlVWpJ7vE/s1600-h/red+heel+2.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5364441930169831410" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SnJTg3H7z_I/AAAAAAAABdQ/r8mlVWpJ7vE/s320/red+heel+2.jpg" style="cursor: pointer; float: left; height: 107px; margin: 0pt 10px 10px 0pt; width: 87px;" /></a>ルイ14世はパリを、ひいてはフランスを、かなり意図的に文化の中心に作り上げようとした人物です。様々な新しい事を始めた人ですが、そのひとつが靴。たかが靴、とは言えません。おしゃれな靴が大好きで、自慢の脚線美も含めてみせびらかす事を目的に靴を選んだようです。靴が初めてファッションアイテムになりました。<br />
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17世紀に入り、それまで勢威をふるっていたスペインとイタリアに代わって、フランスとオランダが欧州の政治、文化の中心になります。さらに、ファッションに関しては、それまで普通だった国ごとの傾向や好みがやや薄れ、グローバル化が進んだ時代と言えるでしょうか。<br />
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昔は日本もそうでしたが、贅沢禁止令が厳しく、階級によって衣類に対する規制は厳しかった。これは逆に言えば支配階級が富と権力を誇示するのに、”おしゃ れ”は非常に有効な手段だったのです。しかしこれに単なる権力誇示以上の意味合いを持たせ、ファッションをファッションとして独立させるきっかけを作っ たのが、さほど大げさでもなくルイ14世。彼が政治力に長けていただけでなく、派手好きパーティー好き、人々の注目を浴びるのが好きな王様だったために、 影響力も前例を見ないほど大きく、それが(当時の社会構成の変化も重要な一要因ですが)階級や国境を越えるほどだったわけです。<br />
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ルイ14世がなぜハイヒールを好んだのか、本当のところは分かりませんが(背が低かったからと言う説と、長身をより高く見せたかったからという説がある(笑)私に言わせると、自慢の脚を長く綺麗に見せるため)、とにかくヒールが大好きでした。<br />
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コチニールという赤色(カーマイン)の染料があります。これはエンジムシと呼ばれる、ある特殊なサボテンに寄生する虫から取れる染料で、当時の産地はメキシコのオクサカ地方に限られており、大変に高価な染料でした。それで染めたヒールは以前からあったのですが、ルイ14世はこれを大流行させます。<br />
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1659年、公用でボルドー地方へ出かけたルイ14世は、地元の靴職人に一足の靴をプレゼントされます。職人の名はニコラス・レスタージュ。地元では20人ほどの従業員を雇う大きな靴屋を営んでおり、既にその道での地位を確立していました。そのレスタージュが国王のために作ったといわれる靴は、どうやら『ロイヤルブルーに百合の紋章をあしらったパンプスで内側は蜂蜜色のタフタ』らしいのですが、彼を取り巻く逸話は伝説みを帯びすぎており、はっきりしません。が、とにかく王様には大変に気に入ってもらえます。<br />
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どのくらい気に入ってもらえたかと言うと、ルイ14世は翌年の自分の結婚式の時にこの靴を履き、当日は迎える花嫁の事と、履いている靴の事で頭がいっぱいだったと言われるほど。ちなみに結婚式の様子を描いた絵画がありますが、靴はロイヤルブルーには見えません。<br />
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レスタージュはその後も、他の職人には真似の出来ない靴(ブーツ)をルイ14世の為に作ったりし、ついに貴族の称号まで与えられます。国王から与えられた彼の紋章は、ブーツの上に王冠をあしらったもの。しかしパリの靴屋からは大変妬まれた様で、基本的にはボルドーの地元で過ごしたようです。何しろ彼の功績を讃えて、100ページに及ぶ詩集まで編纂されたほどですから。<br />
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一際目立つ赤色をあしらった靴などが流行すれば当然ですが、靴がファッションアイテムとして注目され始め、次第に服とのコーディネートも重要視され始めました。さらに、革よりも布の方が色、質などの種類が多く応用が効くために多用され始めます。<br />
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ひとつ靴作りでこの時代に変わったことは、ローマ時代からずっと普通だった、右左の区別がなくなったこと。左右べつべつの木型を作った上にハイ ヒールまで作るのは面倒過ぎるとされてしまったのです。それ程ヒールが重要視されたとも言えますが、その後ヨーロッパで再び左右別々の靴をみるには、19世紀半まで待たなければなりません。<br />
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<span style="font-style: italic;"><span style="font-size: 78%;">the picture above </span></span><span style="font-size: 78%; font-style: italic;">: the portrait of Louis XIV by Hyacinthe Rigaud</span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-72917482030769061082009-07-22T13:06:00.017-04:002009-07-23T11:40:03.592-04:00ヘアスタイリストことはじめ<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/Smdtyv7pxcI/AAAAAAAABcg/dz9uSWlAC3I/s1600-h/hair+1660+7.JPG"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 168px; height: 296px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/Smdtyv7pxcI/AAAAAAAABcg/dz9uSWlAC3I/s320/hair+1660+7.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5361374600035419586" border="0" /></a>日本語で言うところの床屋は古代から存在しました。<br />17世紀になると、床屋はそれまでどおり外科・歯科医として働く傍ら(中世からそうでした)、カツラ作りも始めます。しかしこれは現在の床屋とほぼ同様、男性による男性のための職業でした。<br />対する女性はどうしていたかというと、床屋の女房や娘、或いは召使いや侍女に、自宅で髪を結わせていました。<br /><br />そこに何故、唐突に男性のヘアスタイリストが現れたのかは分かりませんが、1640年頃にシャンパーニュ(本名、詳細不詳)と呼ばれた、欧州初の女性のための男性美容師がパリで絶大な人気を博するようになります。<br /><br />彼の顧客リストにはフランス王室のお姫様方が名を連ね、ことに1645年にポーランド国王に嫁いだマリー・ルイーズ姫は、シャンパーニュにポーランドまで付いてきてくれるように頼んだほどです。<br /><br />シャンパーニュのいちばんの功績は、美容師というものを職業として打ち立てた事でしょう。<br />彼自身は大変わがままで癇癪持ち、気に入らないことがあれば髪を半分やりかけのまま、顧客の家を去ったりするので、人気がある半面、敬遠する人もいました。そういうわがままを嫌ったり、余りに高額なサービスう受けられない女性が多くいたがために、パリの街に初めて、女性美容師による公共の美容院が作られました。顧客はお店をスタイリングの為に尋ねるようになったのです。<br />これによってスタイルの変化、新しいスタイルを作り上げる事の重要性が生まれました。以後、女性のヘアスタイルはめまぐるしく変化し始めます。<br /><br /><span style="font-size:78%;"><span style="font-style: italic;">picture above from 20,000 Years of Fashion</span></span>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-40295235661996838892009-07-21T18:20:00.006-04:002010-05-25T23:47:32.725-04:00ウェディングドレス<a href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SmZAnnM3IKI/AAAAAAAABbg/GhOO9x7_sMM/s1600-h/bridal+1.jpg" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5361043455713157282" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SmZAnnM3IKI/AAAAAAAABbg/GhOO9x7_sMM/s320/bridal+1.jpg" style="cursor: pointer; float: left; height: 260px; margin: 0pt 10px 10px 0pt; width: 195px;" /></a><br />
詳しいことはともかく、作ったドレスは無事に花嫁さんに着てもらえました。<br />
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希望により、エンパイアスタイル、総シルクでサテンの上にシフォンを2枚重ねた贅沢なドレスです。<br />
最初デザインの段階では、花嫁さんのお母様は「妊婦さんに見えないかしら?」と心配顔でしたが、意外なほどすっきりしたシルエットには納得いただけたようです。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-21328781392633317992009-03-12T13:42:00.027-04:002010-05-25T23:47:11.991-04:00最近のこと<a href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SmZG8TwLGQI/AAAAAAAABbw/OezqKk5kTkA/s1600-h/crochet+3.JPG" onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}"><img alt="" border="0" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5361050408339577090" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SmZG8TwLGQI/AAAAAAAABbw/OezqKk5kTkA/s320/crochet+3.JPG" style="cursor: pointer; float: left; height: 152px; margin: 0pt 10px 10px 0pt; width: 203px;" /></a>ひたすら作業台に向かって、縫い物、編み物の毎日。<br />
ウェディングドレス作ってる最中です。<br />
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ちなみに自分のではありません。。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-64407031421323282242008-11-19T18:42:00.015-05:002008-12-03T18:33:29.407-05:0014世紀のスタイル Part6<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlJosKsAI/AAAAAAAABNI/xBdXTa2O-ng/s1600-h/late+14c+2.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 137px; height: 320px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlJosKsAI/AAAAAAAABNI/xBdXTa2O-ng/s320/late+14c+2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270519048890396674" border="0" /></a>肘の上から布が垂れ下がっているのが分かると思う。<br />これは14世紀半ばの特徴。<br /><br />少し前までは、袖がそのまま長く装飾的だったが、ドレス本体とは別になる。<br />この当時の袖は、手の甲が隠れる長さだった。<br /><br />髪は、両サイドの三つ編みをヘアバンドで留めてあるように見える。<br /><br />ドレスの前中心にポケットがあるようなのが面白い。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlJQPpedI/AAAAAAAABNA/u0tYunJR8aQ/s1600-h/late+14c+1.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 118px; height: 320px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlJQPpedI/AAAAAAAABNA/u0tYunJR8aQ/s320/late+14c+1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270519042328328658" border="0" /></a><br />14世紀後半。<br />襟はハイネック、袖はゆったりとした形に変化してゆく。ただし、中に着ているものの袖口は、以前と変わらない。<br /><br />髪は、額の両脇に角のようなお団子があり、その上から縁飾りのついた一重のヴェイルを被っている。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlKBg-CKI/AAAAAAAABNY/86KoOEADETs/s1600-h/late+14c+dresses.JPG"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 216px; height: 258px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlKBg-CKI/AAAAAAAABNY/86KoOEADETs/s320/late+14c+dresses.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270519055554316450" border="0" /></a><br /><br />下の絵は、14世紀半ばから後半にかけて。<br />右から二番目の女性だけ、ハイネック。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlJ7SlAlI/AAAAAAAABNQ/cz0KmgfAPL0/s1600-h/late+14c+1.JPG"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 185px; height: 232px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSlJ7SlAlI/AAAAAAAABNQ/cz0KmgfAPL0/s320/late+14c+1.JPG" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270519053883343442" border="0" /></a><br />ハイネック、広く開いた袖口。14世紀終わり頃。<br /><br />男女とも、襟、袖口から除かせているのは裏張りの毛皮だと思われる。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-46298956221302069202008-11-19T16:57:00.029-05:002008-11-19T18:42:44.382-05:0014世紀のスタイル Part5<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSVz0kdqPI/AAAAAAAABMg/f_kzZ9kGB00/s1600-h/shoes+in+group1.jpg"><img style="margin: 0px auto 10px; display: block; text-align: center; cursor: pointer; width: 379px; height: 186px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSVz0kdqPI/AAAAAAAABMg/f_kzZ9kGB00/s320/shoes+in+group1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270502181447772402" border="0" /></a>靴。ヘタすると、実際の足のサイズの倍の長さの靴もあった。女性はドレスで隠れるのでそんなものは履かなかったが、男性はながーいつま先の形を保つために、鯨の軟骨を入れるほどだった。<br /><br />そうなると、歩けない。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSXpH3xrYI/AAAAAAAABMo/Ymg6zP48xGE/s1600-h/shoe+w+chain2.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 305px; height: 299px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSXpH3xrYI/AAAAAAAABMo/Ymg6zP48xGE/s320/shoe+w+chain2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270504196673744258" border="0" /></a><br />なので、膝下、ふくらはぎの上に金具付きの鎖を下げておいて、必要な時(つまり歩く時)にはそこに留め付けるようにした。。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />時はゴシック時代。建築物が細く高く伸びて行った時代。ファッションにも反映されている。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSN6G4fvdI/AAAAAAAABMI/xtfRkTcmHjk/s1600-h/shoe3.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 203px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSN6G4fvdI/AAAAAAAABMI/xtfRkTcmHjk/s320/shoe3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270493493349826002" border="0" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSN5sA2UjI/AAAAAAAABMA/Xqgy8CcNZzw/s1600-h/shoe2.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 110px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSN5sA2UjI/AAAAAAAABMA/Xqgy8CcNZzw/s320/shoe2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270493486137102898" border="0" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSN5UqKHXI/AAAAAAAABL4/t-HhuH0YsC8/s1600-h/shoe1.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 178px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSN5UqKHXI/AAAAAAAABL4/t-HhuH0YsC8/s320/shoe1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270493479867915634" border="0" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />バッグにも・・・<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSapHcO-AI/AAAAAAAABMw/5goMX_NkzRY/s1600-h/bag2.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 198px; height: 254px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSapHcO-AI/AAAAAAAABMw/5goMX_NkzRY/s320/bag2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270507495093106690" border="0" /></a><br /><br /><br /><br />年代ははっきりしない。<br />本体は革。金具の部分は鉄製だが、何か建築物が。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />こちらは15世紀のもので金具は上と同様、本体はカット・ベルベット。<br />より縦長く、ゴシックっぽい?<br /> <br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSapbpjd0I/AAAAAAAABM4/owqPsbBJwtA/s1600-h/bag1.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 195px; height: 265px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SSSapbpjd0I/AAAAAAAABM4/owqPsbBJwtA/s320/bag1.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5270507500517685058" border="0" /></a>yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7833854058796414395.post-7091019012348083952008-11-14T20:38:00.016-05:002009-07-22T16:33:50.619-04:0014世紀のスタイル Part4<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r5MLGC4I/AAAAAAAABLw/3dr_F3Wpjt8/s1600-h/14c+buttons+2.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 282px; height: 170px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r5MLGC4I/AAAAAAAABLw/3dr_F3Wpjt8/s320/14c+buttons+2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5268696875590355842" border="0" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />単純に言ってしまえば装飾品。<br />1300頃のもの。<br /><br /><br />メトロポリタン美術館の展示物から。<br />用途はさまざまで、服に縫い付けたり、手袋やベルトに付けたり、或いはジュエリーとしても使われたかもしれない。<br />聖職者の法冠だとか、教会関係の装飾品であった可能性もある。。と説明書きにある。<br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r4-37-dI/AAAAAAAABLo/NJuKGVsNw6U/s1600-h/14c+button+5.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 230px; height: 235px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r4-37-dI/AAAAAAAABLo/NJuKGVsNw6U/s320/14c+button+5.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5268696872020343250" border="0" /></a><br />フランス製<br />中央はエナメル細工。6つの花びら(?)にはそれぞれ宝石が嵌め込んである。<br />土台は銅に銀メッキらしい。金色に見えるけど。。<br /><br />当時の技術の高さが見受けられる。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r47evqXI/AAAAAAAABLg/-eV0oZNi99w/s1600-h/14c+button+4.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 241px; height: 241px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r47evqXI/AAAAAAAABLg/-eV0oZNi99w/s320/14c+button+4.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5268696871109372274" border="0" /></a><br />おそらくフランス製<br />同じく銀メッキで、中央の石の様に見えるのはガラス。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r46YcDQI/AAAAAAAABLY/X_0Dmy4zfmQ/s1600-h/14c+button+3.jpg"><img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 242px; height: 244px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_zqnTYtrbuzs/SR4r46YcDQI/AAAAAAAABLY/X_0Dmy4zfmQ/s320/14c+button+3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5268696870814485762" border="0" /></a><br /><br />おそらくフランス製<br />銀メッキの土台に、サファイア。yoshdancehttp://www.blogger.com/profile/17757094310260663938noreply@blogger.com2